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庵治石について

庵治石の歴史

庵治石の歴史

庵治石の歴史は非常に古くて、京都男山の石清水八幡宮の「建武回録記」という古文書の中に次のような記載があります。

1339年(暦応2年)この八幡宮の宝殿、弊殿、拝殿の再建にあたり、石種30種余、箇数5000余りの切石が使用されたが、
これは前例にならって、検校職(お宮の事務を総管する役)をつとめる田中殿の所有地讃岐の国から送り込まれた…

一方、田中家文書によると、平安末期から南北朝、室町時代にかけて中讃岐草木の庄、牟礼の庄(現在の大字牟礼大町)一帯が石清水八幡宮の荘園であったとされていることから、
この再建のための石材に「庵治石」が使用されたと思われます。つまり、庵治石は平安時代後期から採石使用され、遠く京都までも送り出されていたわけで、およそ1000年の歴史の中で注目を集めていたと言えます。

また、当地域での庵治石製品加工の発祥は今をさかのぼること650年、石清水八幡宮の再建時と思われますが、工法作品等斬新的なうつろいは1814年屋島東照宮造営の頃と言われています。
それまでも牟礼、庵治にも石工はいましたが、人手不足のため和泉の国より石工を呼びよせました。
任務を終えた彼等石工達は現在の久通り附近に住みつき、この地で自らの業を立て始めました。
この頃からすでに石材産地としての胎動がありました。
その後、明治時代ぐらいまでが「庵治石産地」としての基礎づくりの時期でした。

当時は、社寺建築、供養塔等に数多く見られる石造物と彫刻物は、注文を受けた石工が自ら山へ足を運び、
原石を採掘加工をしていましたが、時代の進展と共に採石と加工が次第に分業化され、丁場師と呼ばれる山石屋と、
仕立師と称される加工石屋とに分かれて現在に至っています。大正より昭和の戦前は「庵治石」発展の時代であり、
花崗岩の中でも特にかたい「庵治石」を見事に製品化する技法を得た石匠が、その技によって刻みあげる石彫品は、「庵治石」と共にその名を全国に轟かせました。

戦後は苦しい時代でしたが、食糧事情も徐々に緩和され一般庶民の生活もようやく安定し始めると共に、灯籠、墓碑等の要望も増加していきました。
昭和35年頃になると、石材切削機が作製され従来の石材加工に大変革をもたらしました。更に、研磨機、切削機ともに自動化が図られるようになり、
石材加工業の製品過程に専門分野が考えられるようになり、必然的に著しい技術改良が進んだのです。

現代は、石匠が年月を経て身につけた技術を思うがまま発揮できる時代で、益々「庵治石材産地」として発展しています。

●庵治石の歴史 源平合戦

寿永の昔、この「庵治石」の産地である庵治町と牟礼町は源平合戦(源平屋島の戦い)の舞台となった屋島壇ノ浦に臨む町です。

源氏と平氏両者の対立は、1156年(久寿3年)7月2日、鳥羽法皇の死により、その子である兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇の間での家督争い(7月11日)に摂関家の内紛が絡んだ武力衝突である「保元の乱」に始まりました。

その後、1159年の平治の乱で表面化し、1180年(治承4年)以仁王の平家追討の命に端を発した動乱は約5年間に及び、
この頃、都を追われた平家は1183年から屋島壇ノ浦を皇居の地としており、1184年2月(寿泳3年)一の谷(神戸)の戦いに敗れた平氏は、安徳天皇を奉じて再び屋島に戻ったが、追いかけてきた源氏軍が火を放し矢合戦の末、源氏側の勝利となりました。この時、源氏兵「佐藤継信」が義経をかばい身代わりとなって亡くなりましたが、源氏方を勝利に導き後の歴史に大きな足跡を残しました。

●佐藤継信

佐藤継信の墓源平合戦時に源義経の四天王の一人であった佐藤継信は1185年(元暦2年)2月、屋島の合戦において、強弓で知られる平家能登守教経から義経を守り、身代わりとなって戦死しました。

寛永20年(1643年)、初代高松藩主の松平頼重公が新しく墓石(佐藤継信の墓)を王墓(牟礼町)壇ノ浦(屋島)に庵治石で建て、その忠死を称えました。

●太夫黒の墓この時王墓の墓地には佐藤継信の墓と同時に義経が一ノ谷合戦の逆落としに使ったといわれる名馬であった太夫黒の墓も建てられています。